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2006年09月28日

第9回 (株)今弘商店、(株)今弘スチール 代表取締役 高橋 文一 様

PROFILE
(株)今弘商店 (株)今弘スチール 代表取締役 高橋 文一 様
プロフィール 昭和31年花巻市生まれ
明治20年に米穀雑貨商として「今文」創業。その後、土地建物賃貸業、鉄スクラップ加工処理、一般鋼材類販売など業務を拡張、手広く展開する花巻の老舗企業。独立採算の経営体制にする為営業所は分社化し、6社の法人を有する。
エピソードに事欠かない個性豊かな代々社長から事業を受け継ぐ5代目社長。いつも柔和な笑顔で落ち付いた物腰で周りの人望も厚い。自分のリズムで自然体に徹すること、おこる出来事は全て必然と受けいれることが自然と良い結果に結びついている。





昭和35年建築の社屋
大事に手入れして窓もピカピカ


律儀に見送って下さった文一社長


3代目 高橋文次郎氏銅像

■個性豊かな先代 初代~4代目

さゆり 今弘さんと言えば、私も子供会の資源回収でお世話になっております。花巻当りでは知らない人がいない老舗企業さんですよね。そのルーツから伺ってよろしいですか。
高橋  創業は高祖父(直系4代前)の文平です。彼は元々和田姓で、 13才の時に花巻の造り酒屋「今酉」さんに丁稚奉公に来ましてね。明治20年、42才の時にのれんわけをしてもらい米穀雑貨商「今文」を始めたそうです。名前も奉公先の「高橋姓」を名乗っていいよと言われて、身内同然にお付き合いしてもらったらしいですね。
さゆり ということは、かなり信頼を得ていたんですね~。さて、2代目はどんな方だったのでしょう。
高橋  2代目は高橋政太郎といいまして、明治の時代にハワイに行っちゃった。
さゆり エエ!? 明治に花巻からハワイヘ? 為替レートは一体どんな感じですか?(笑)
高橋  ハハハ、どうだったんでしょうね。弟の学資稼ぎが目的と聞いています。実家の商売は両親がいるし、一旗あげて来ようという気持ちだったみたいですね。ところが、行ってみるとサトウキビ畑で重労働の毎日で、元々政太郎は体力に自信がなくて悩むわけです。そこで、体力がなくて悩んでいること、本当は勉強がしたいことなどを工場長に上手く伝えたそうなんです。そしたら、ハワイの図書館に勤務できることになって。奥さんも工場長の自宅のメイドとして働くことになったそうなんです。
さゆり はぁ~、普通クビですよね。(笑)当時は労働基準法もないだろうし。
高橋  自分の気持ちを上手く表現することに長けていた人のようですね。結局、ハワイへは5年滞在して帰国するわけですが、外国で視野がひろがったんでしょう、いち早く米の検査員の資格を得て県内を廻ったり、貸家業を始めたりしてました。店子さんも税務署長さんや裁判所の判事さんなどにするから信用度も高い。また製氷業も始め、花巻のトラック1号はうちだったという話もありますが、これは本当かどうかは確認できないです。(笑)
さゆり う~ん、初代と2代目はなんというかフロンティアスピリッツに満ち満ちていますね~。さて、3代目になるとお祖父さまに当るわけですよね。一体どんな方だったんでしょう?
高橋  実は祖父 文次郎は3男なんですよ。どっかに「自分は3男坊で家を継ぐ人じゃない」という 意識があったんでしょうね、何か新しい事業をしなくてはと常に感じていたようです。ある日のこと、今文のそばで「ボロ屋」をやってた御夫婦が「今から夜逃げをします。」と挨拶に来ました。文次郎は貸したお金が回収出来ないのは面白くない。勿体ないと思うと同時に以前から「ボロ屋は面白そうな商売だな」と思ってたようで「俺がボロ屋の商売をやってみるから手伝ってくれ」と声をかけたんです。時に昭和5年、今弘商店の始まりです。
さゆり スゴ~イ!M&A??(笑)すみません、ボロ屋ってなんですか? 高橋  古繊維と呼ばれる古い衣類、古い布。それから髪の毛、馬の毛ですね。最初は負債も多くかなり苦労したようですが、時代の流れで金属ものを扱うようになってから商売が軌道に乗りました。石油の一斗缶ではかなり商売を伸ばしたようですね。
さゆり 一斗缶はどのように再利用したんですか?
高橋  沿岸地域で魚を入れるのに需要があったんです。それから鉄鋼業が盛んになりましたので、必然的に鉄クズも増えていく訳です。新日鉄釜石との取引が始まりまして商売が広がってきました。
さゆり 記憶にあるお祖父さまはどんな方なんですか?
高橋  これが全くの「創業者」(笑) 非常にワンマンでね、文次郎のツルの一声は絶対です。おっかないなんてもんじゃない。まず朝は3時ごろ起床。従業員の宿舎の周りを咳払いして歩き起床を促すわけです。朝ごはんの前に一仕事するのが当たり前の、とにかくよく働く人でした。
さゆり ワンマンなお祖父さまでも、お孫さんで長男となれば文一社長には甘かったのでは?
高橋  実は、祖父とは小さい頃は住まいを別にしていました。というのは元々上町で商売をしていたのですが、もっと広い場所に移転する必要に迫られたので、昭和35年頃父母と私たち兄弟はここ(鍛治町)に越してきたんです。たまに祖父の家に行くと、とにかく話が長い(笑)大体2時間、長いと半日。でも話が終ると1万円くれるので黙って我慢して聞きました。
さゆり 当時、1万円はかなり大金ですよね。うらやましい(笑)どんな話か覚えていますか。
高橋  昔の事から今までの苦労話とか訓示とか私に聞かせたいことでしたね。当時は我慢していましたけど、体に刷りこまれていますね。
さゆり さてさて、そんな強烈なお父上を持った4代目文吉さま、つまり高橋社長のお父さまはどんな方だったんですか。なんだか苦労多そうですけど(笑)
高橋  負けじと強烈です(笑)普通だとめげてしぼんじゃうんだけど、意外とそうじゃない。現在会長の文吉は26才の時に社長に就任しました。
さゆり 26歳ですか!? 普通そのようなワンマン社長だったらずっと社長をしてそうですけど…
高橋  外には豪傑に見えるんですけど、内心は非常に繊細で慎重なんです。半分冗談で言ってたのは、「3代目は身上つぶす」って言われてるから早く息子に家督を譲りたかったそうです。(笑)さらに、息子の社長就任と同時に、高弘さんに同じ商売を同じ資本金渡してのれん分けしました。「さあ2人で競争してみろ」と競わせたんです。
さゆり き、きつ~!((^-^; でも、競争の原理で会社は発展しますね、戦国武将のような策士ですね…
高橋 おやじはさすがにきつかったと言ってましたね。頑張ってここまできたんでしょうね。

■5代目の自分 ~バトンランナーの一人である~

さゆり さてさてようやく5代目、文一社長の出番です。やはり26才で社長就任ですか?
高橋  親父も考えたらしいけど、銀行さんに時代が違うといわれたらしく(笑)36才で社長に就任しました。
さゆり かなり個性的な4代の社長を経て5代目に就任される…どんな心境なんでしょう?
高橋  私は小さいころから人と争うのが嫌いなんですね。起ることは全て必然だなと受け止めているんです。社長就任時と同時に判断を迫られる物事がありました。新工場を建てる話があったのですが当時は景気もよくないし、そんな大きな投資をしていいものかと。ただ、国の資金が使える可能性がありましたから「これに申請してみて審査が通ったら建てよう。ダメならやめよう」と肚をくくったら通りました。(笑) 工場ができると、自動車工場が金ヶ崎に進出してきてその仕事が入るようになりました。後から考えるとそのタイミングで工場を建てなければその仕事は受けられなかった訳です。そんな風に計画しなくてもイメージ的に今年やれれば良いなと思っていると上手い具合にフっと実現するんですね。不思議です。親父や祖父とは違っても自分のリズムでやるしかないかなと思っています。
さゆり しっかりと文一社長のスタイルができている印象を受けます。今後はどうような方針で行きますか?
高橋  私たちの仕事は世の中が良くなれば仕事が増えるという業態ですから、まず人さまのお役立ちができれば自然と仕事も増えていくと思います。気がついたらなんだか忙しいねというのが理想ですね。そして自分は単なる「バトンランナーの一人」でしかないと思っています。次世代につないで行かなくちゃいけないと感じます。後継者のことも娘2人で息子はいないのですが、あまり悩んではいません。最後は上手い具合になんとかなるだろうと自然に受け止めています。(笑)
インタビューを終えて
文一社長は倫理法人会でお世話になっております。常々不思議だったのはいつも穏やかで柔和な微笑をたたえている事です。この品の良さは育ちの良さだけでは生まれない、何かある!是非一度お話してみたいと狙っておりました(笑)
最善を尽くしたら天命をまつ平常心の心で、自然と事業も上手くいくという理想の循環形を実現してるところです。その心の持ちかた、わたしもおそばで学んでいきたいです。これからもついていきますヨ!

投稿者 bcac : 2006年09月28日 11:24

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